就職して1ヵ月が経った。
誇りっぽい倉庫で幸司は先輩の早河と作業をしていた。
「仕事慣れたか?」
「いえ、まだまだです」
「酒、飲めるのか?」
「少しなら」
「付き合え」
「あ、はい」
上司に言いつけられた倉庫の片づけを早々と済ませ
早河が行きつけの居酒屋。焼き鳥の煙が充満していた。
「お前の実家は何してんだ?」
「すし屋です。でも親父は死んで兄貴が継いでます」
「へぇ、すし屋か。旨いもん食って育ったな」
早河がジョッキを傾けながら呟く。
幸司には嫌味に聞こえたが、切り返す。
「俺の親父は漁師してんだ。いまだに。しかも鰹の一本釣りだ」
「へえ、漁師ですか?先輩こそ旨いもん食ってるじゃないですか」
早河は無表情で鼻で笑って
「お前ほどじゃねぇよ」
と応えた。
それから2人はいい飲み友達になった。
漁師とすし屋。気があったような、兄弟のような。
不思議な感覚だった。
ある日のこと、いつもの居酒屋に鰹の刺身が並んだ。
「先輩、鰹ありますよ」
「いや、この鰹は旨くねぇ。大きさ、身の色でだいたいわかる」
「そうなんですか。さすがですね」
「ところでお前、鰹の握り、食ったことあるか?」
幸司は親父にも兄貴にも握ってもらったことがなかった。
「うめぇんだぞ。脂があっても無くても、鮮度がよければ最高だ」
早河の故郷ではぶつ切りに切った鰹で作る「てこね寿し」
という郷土料理があるという。
「でもな、握りが旨いんだ握りが。兄貴に教えてあげな」
久しぶりに兄貴の声を聞いた。
「兄貴、鰹握ったことあるか?」
「鰹?鰹は握ったことねぇぞ」
幸司は早河のことを話した。
「そうか、なら一度仕入れてみるか」
幸司は就職して初めて実家に帰った。
「鰹、仕入れてみたぞ」
「で、どう?」
「まぁ、食ってみな」
頬張ると、マグロとはまた違う風味が広がる。
生姜と浅葱の香りが鼻腔をくすぐる。
「兄貴、旨いよ。臭みもないし」
「ただ、目利きが難しい。何本も駄目にしたよ」
これなら早河も喜んでくれるかも知れない。
よし、早河に食ってもらおう。
合格が出るかどうかわからないが
ふだん世話になっている早河にどうしても喜んでもらいたかった。
次の休みに早河を誘った。
鰹を食べた早河は旨いとも不味いとも言わなかったけれど
食べてくれたことが嬉しかった。
早河は幸司の兄にビールを勧めながら
「いい弟さんですよ」
と、似合わないおべんちゃらをいっていたが
まんざらでもなさそうだった。
今度は秋だ。今度は脂の乗った鰹で
早河に旨いといってもらおうと思った。
すし屋のカウンターには思い出の味がある。