まだ、そんなに古くない話だ。
彼女との出会いは行きつけのバーだった。
06年のこと、マスターとオークスの話をしていた。
その年の桜花賞を制した
キストゥへヴンが2冠を達成するのかで持ちきりだった。
「鞍上はアンカツさんでしょ？万全じゃん」
「そうかなぁ、豊のアドマイヤキッスがリベンジするって」
グラスを傾けながらマスターと妄想が弾む。
「私はカワカミプリンセス」
なんとも言えないタイミングで声が聞こえた。
声の主がワイングラスを前に頬杖をついている。
見れば時々見る顔だった。
「へぇ。競馬好きだったんだ」
マスターが言う。
「マスター、相変わらず、鈍いわね。
あたしの競馬好き、見抜けないようじゃ、
この店の暇加減、わかるってもんだ」
その、してやったりの顔に恋をした。
それから、時間が合えば2人で競馬場に行った。
気が合ったのは馬券の買い方もだ。
僕たちは単勝を好んだ。
でも、僕は保険で複勝も買う。
「潔くないわね、男のクセに」
「悪いか、男はできれば負けたくないんだ」
なんとも説得力のない、言い訳だった。
競馬場を後にするといつものバーだった。
大好きなワインを飲みながら頬杖をつく彼女。
「楽しかったね」
そう言って乾杯を強請る。
憎めない横顔だった。
幸せな日々は続いたけれど僕は決断を鈍っていた。
そして、去年のオークスの日だ。
彼女は絶対の理由で府中に行きたいと言う。
｢サンテミリオンの単勝、買うんだもん」
「なに、言ってんの？アパパネの2冠で決まりじゃん」
「1番人気の単勝ってほんと潔くないっ」
「今日は複勝は勝ってない」
「つまらない、お・と・こ・」
「なんで、サンテミリオンなんだ？」
「知らないの？フランスワインの有名な産地なのよ。
行ってみたいなぁ、サンテミリオン」
その日の府中は朝から雨だった。
雨に煙る、東京競馬場。
選ばれし乙女たちがスタートを切る。
レースを引っ張るのはニーマルオトメ。
そして、アグネスワルツが続く。
彼女のサンテミリオンは中団を進み、 僕のアパパネが追う。
第4コーナーを周ったところでピンクの帽子2頭が抜け出してくる。
サンテミリオンとアパパネだ。
そして2頭がアグネスワルツを交わす。
一瞬、抜け出したのはサンテミリオンだった。
追いすがるアパパネ。
女の意地はほぼ同時にゴール版を駆け抜けた。
ターフを覆う静寂。
やがて歓喜とも悲鳴ともわからぬ声がどよめく。
13分間の写真判定。
そして結果はJRA史上初、G1レースでの同着だった。
「えー、何で？」
その瞬間、納得いかない顔の彼女の横で僕は決めたのだ。
これから先の人生も彼女と分け合うことを。
G１ 優駿牝馬
5月22日（日） 東京 芝2400m
